何にもない自分の、これからの青春について。

今日は、ラーメンの話ではなくて、何か違うことを書こうと思います。

自分のブログなのに「この場を借りて」というのもおかしいな。

さて、就職活動がようやく一段落しました。
悔しいのが半分、まあよくやった方じゃないかという気持ちも半分ってところですかね。

ちょうど1年前の5月末、六本木ヒルズの合同説明会に初めて足を踏み入れたときのことを思い出します。
会場に着いた途端の、他の就活生たちの量と熱気に、目眩のするような思いでした。そして、この人たちに僕が勝てるのは学歴以外に何があるんだろうか?と泣きそうな気分で会場を後にしたのも昨日のことのように覚えています。
あれから1年間、必死と言えるくらいには必死でもがいてきたつもりです。
でも結局は、もがけばもがくほど、本当に僕には学歴以外の何もないんだなあ、ということを実感するだけの1年間でした。

「自分には何にもない。」

そんなことは実はとっくの昔、小学生の頃からずっとずっと感じていたことです。
だからこそ、勉強さえしておけばなんとか勝負になりそうな、学力と学歴だけはつけようと思いました。
それ以外の興味に関しては、あとで言い訳ができる趣味として逃げられる範囲で、いろいろ手を広げてみたりもしましたが、所詮はその程度です。デザインも、ラーメンも、その他の趣味もね。
その選択は正解だったのか、まだよくわからないけれど、いまのところ22歳の僕には本当に何にもないです。

まあ、ただ、何もないのはわかってるので、その上でどうやって生きようかっていうのは自分の中の隠れたテーマですね。
自信がありそうって他人からはよく言われますが、それ、逆に自信がなくて、自分には何にもないことがわかってるからこその一種の開き直りみたいなもんが表情に出ちゃってるときですから。あんまり見ないでね。

今日の僕は正直でいいですね。
特に自分に対して嘘をつく必要がないのは久しぶりで、気持ちがいいです。

話を戻すと、何にもない人間がいかに生きるか、というのが問題になるわけですが、何にもない人間のくせして、何にもないようには生きたくはない、というのが本音なので難しいところです。
振り返ってみると、なんか身近な人に自分の人生の意味を押し付けてみたり(あの人のために生きる!とか甚だ迷惑なことを考えてみたり)、なんか崇高な理想を掲げて人生をドラマティカルに演出してみたり(フェミニズムに傾倒して自分がこの社会構造を変えたいとか思ってみたり)、いろんなことを試してきたみたいですが、結局どれもうまくはいかなかったです。

結局、どう生きれば満足なのか、よくわかんないです。迷ってばっかりです。

でもまだ、何にもない人間にふさわしい人生だけは、できれば選びたくないなあ。
たしかに何にもないけど、そこまで聞き分けのいい人間にできてるわけでもないので。
基本的に図々しいんです。何にもないくせに、いや、何にもないからこそ。

じゃあ自分は何がしたいのでしょう?
これ、就活の面接でよく聞かれて、そのたびに違うこと答えてました。
まあそんなんじゃうまくいくはずないよね。優秀な面接官にはお見通しだったと思います。

ふーん、君それ、さっき考えたよね? 本当は弊社で何がしたいのかなんて、全然見えてないんでしょ? YOU正直に言っちゃいなよ。
はい、その通りです、バレちゃいましたか。にょほう(ω) それであの、いったい僕はどうしたらいいんですかね。にょほう(ω)

ここまで書いてきて泣きそうになってるので、書くのをやめて横になりました。
何かを考えたいとき、何にもない空っぽの自分は本を読んで、それに思考をいったん預けてしまうことが多いです。楽なので。
本棚を見たら、青春の文字をタイトルに掲げた本に目が止まりました。
大学に入った頃に読んだ本で、いくつか付箋がついてます。
手に取って何気なくぱらぱら読んでたら、あまりにタイムリーな箇所に付箋が貼ってあってびっくりしました。

昔からそうなんですけど、ベストと思えるタイミングで求めてた人や本に出会える才能は自分には結構あるんじゃないかって思いますね。まあほとんどの人にとってそれはそうなんでしょうけれども。

暇なので付箋のついてた箇所を引用しちゃいます。

自分の人生を自分に賭けられるようになるまでには、それにふさわしい自分を作るために、自分を鍛えぬくプロセスが必要なのだ。それは必ずしも将来の「船出」を前提としての、意識的行為ではない。自分が求めるものをどこまでも求めようとする強い意志が存在すれば、自然に自分で自分を鍛えていくものなのだ。そしてまた、その求めんとする意志が充分に強ければ、やがて「船出」を決意する日がやってくる。
そのとき、その「船出」を無謀な冒険とするか、それとも果敢な冒険とするかは、「謎の空白時代」の蓄積だけが決めることなのだ。
青春とは、やがて来たるべき「船出」へ向けての準備がととのえられる「謎の空白時代」なのだ。そこにおいて最も大切なのは、何ものかを「求めんとする意志」である。それを欠く者は、「謎の空白時代」を無気力と怠惰のうちにすごし、その当然の帰結として、「船出」の日も訪れてこない。彼を待っているのは、状況に流されていくだけの人生である。
(立花隆『青春漂流』より)

ふうむ。
昔の自分がここに付箋をつけたということは、同じようなことで悩んでてそれから成長してないってことなんですが、まあそれは置いといて。

どうやらまだ、僕には「船出」はできそうもありません。
でも状況に流されていくだけの人生も送りたくないことだけは確かです、先生。
まだ、「謎の空白時代」、「青春」を続けてもいいんですか。
もう僕は大学4年で、時間がないんですよ、先生。

いつからいつまでが青春などと、青春を時間的に定義できるものではない。自分の生き方を模索している間が青春なのである。それは人によって短くもあれば、長くもある。はじめから老成してしまっていて、青春など全く持たない人も、必ずしも珍しくはない。どういうわけか、最近その手の若者がふえているような気がする。肉体は若く、精神は老いぼれた青年である。世間の常識から一歩も外れないようなことばかりいい、また、そういう身の処し方、生き方しかしようとしない。そういう人の人生は、精神的には墓場まで一直線の人生である。
平均的には、三十代までを青春に数えていいだろう。孔子は「四十にして惑わず。」といった。逆にいえば、四十歳までは惑い続けるのが普通だということだ。
ぼくの場合もそうだった。青春が終わった自覚と共に、孔子がいった「不惑」とはこういうことであったのかと思った記憶がある。
迷いと惑いが青春の特徴であり特権でもある。それだけに、恥も多く失敗も多い。恥なしの青春、失敗なしの青春など、青春の名に値しない。自分に忠実にしかも大胆に生きようと思うほど、恥も失敗もより多くなるのが通例である。
迷いと惑いのあげく、生き方の選択に失敗して、ついに失敗したままの人生を送ってしまうなど、ありふれた話だ。若者の前にはあらゆる可能性が開けているなどとよくいわれる。そのとき、”あらゆる可能性”には、あらゆる失敗の可能性もまた含まれていることを忘れてはならない。
先に述べた精神だけが老化した青年とは、実は、あらゆる失敗の可能性を前にして足がすくんでしまった青年のことである。彼は口を開けば人生にチャレンジしない自分の生き方についていろいろ聞いたふうのことをいうかもしれない。しかし、真実は、彼は人生を前にして足がすくんでしまっているというごく単純なことなのだ。
(立花隆『青春漂流』より)

先生のおっしゃる通り、僕はいま、自分の人生に足がすくんでいます。
目の前に広がる茫漠とした未来に期待がもてなくて、でもただそれを直視した上で何もないなりに無難な人生を選び取るだけの勇気もなくて、本当に、毎日が、つらいです。
でもこの文章を読んだ僕は、同じ思いを胸にしながらもどうしようもなくて流れに身を任せようとしているたくさんの若者たちよりは、ほんの少しは救われているのかな、とも思います。
だから、すくんだ足に鞭を打って、もう少しだけ、もがいてみようかな、と思います。

たぶんまた失敗するんだろうなと思います。今までがそうだったように。

でも、失敗してもいいんだと開き直れることは、
失敗したときに笑って聞いてくれる友達がいることは、
実は何よりも心強いです。

結局、何にもない僕が、何にもないなりに今までもがいてきて、
その途中で手に入れたものって、その2つだったんじゃないかな。

だから、すみませんまた嘘ついてました、僕には何にもなくなんか、なかったです。

いつまでもうじうじ言ってないで、そういう仲間たちと、もう少しだけ、青春してみようと思っています。

人生を決めるにはまだ早い。
時間はたっぷりある。だから、いくらでも失敗してやる。

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